松丸まさしのプロフィール

松丸まさし(まつまるまさし)

文京区議会議員4期
松丸まさし
(松丸 昌史)

●1958年(昭和33年) 東京都生まれ 東洋大学法学部卒
●文京区議会議員4期 2003年(平成15年) 初当選
●文教委員会委員長、災害対策調査特別委員会委員長、予算審査特別委員会委員長、監査委員、副議長等を歴任
●現在、文教委員会理事、自治制度・行財政システム調査特別委員会理事、地域振興・まちづくり調査特別委員会委員
●公明党文京総支部長、第2支部長
●その他、文京区議会日中友好議員連盟会長、文京区アーチェリー協会会長、文京区高田老松町会副会長

エピソード

下町で育った子ども時代
私の生まれは葛飾区柴又です。人情味溢れる下町で、金属加工(プレス屋)の零細企業を営む両親と姉の4人家族で暮らしていました。

零細企業とは言っても従業員はおらず、両親がすべての仕事をこなしていました。当時のプレス屋は危険な仕事で、作業中の事故により、母親は指を一本、父親は二本失ってしまいました。そのような過酷な環境で、休みなく働く両親。私も学校から帰ると、できる限り二人の手伝いをしました。

家計が厳しく、使うもの・着るものはいつも姉のお古。あるときは姉のピンク色の長靴を、父がコールタールで黒く塗りつぶし、私に履かせました。しかしそのうちひび割れし、気づいたときにはピンクの下地がまる見えだったのも、今では良い思い出です。

当時の多くの子どもたちと同様、私も野球が大好きで、家業の手伝いがないときは、日が暮れるまで友だちと草野球に没頭しました。

貧しくはありましたが、活気溢れる町の人々と快活な両親のもと、元気に育ちました。

幼少期

夜学に通った学生時代
貧しい家計を支えるため、高校入学と同時に牛乳配達のアルバイトを始めました。当時のお小遣いはすべて自分で稼ぎました。

高校卒業後は就職を考えていました。しかしお世話になった先生から、「働きながらでもいいから大学に行くべき」と強く勧められ、進学を決意。東洋大学法学部の夜学に通いました。

昼間は本屋で配達の仕事。自転車で文京・台東・荒川などの地域に配達しました。特に辞典や大型の書籍はとても重く、坂の多い地域を駆け回るのはかなりの労作業でした。しかしこのおかげで相当体力がつき、足腰が強くなりました。また、雨の日も風の日も黙々と仕事に取り組む私を、本屋のご夫婦は大変可愛がってくださり、当時としては珍しく、学生の私にボーナスまで支給してくれました。

高校時代

営業畑を歩いた社会人
大学卒業後は、紙を扱う商社に就職。25歳で結婚し、翌年妻の実家があった文京区に移り住みました。

職場では、新規開拓専門の営業を担当しました。勤めた23年間で、60件以上もの取引先を開拓しました。

私が特に力を入れたのが、サトウキビなどを原料とした、地球に優しい非木材紙の営業です。今となっては珍しくはありませんが、当時はコストが通常の倍近くかかり、商品もほぼ皆無でした。そのため私はまず、非木材紙を作ってくれるメーカーを開拓する必要がありました。

ある大手メーカーは工場が沼津にあり、何度断られても通い続けました。そして粘り強い交渉の末、一年かけて商品化までこぎつけることができたのです。大手メーカーが動いたことにより、業界全体の意識が変わりました。このことが「地球に優しい紙の商品化」を推進する、突破口となりました。

議員に初当選
2003年(平成15年)に立候補し、初当選。「活力ある文京区」をテーマに中小企業対策・高齢者対策などに挑みました。

当選後、区民の方から受けた最初の相談は、重度障がい者の「親なき後」の入居施設が無い、というものでした。相談を受けすぐさま、私をはじめ区議会公明党で調査を開始し、議会に提案しました。必死の訴えの結果、最後は区も動き、文京福祉センター内に、施設の設置が決まりました。あの時の相談者の安心しきった表情は、私の議員活動の原点となりました。

文京区の水害対策を推進
議員として力を入れたことに、文京区の水害対策があります。これには私自身の実体験も影響しています。

葛飾にあった私の実家は、すり鉢状の土地の、ちょうど底にあたる位置にありました。そのため豪雨があると水が流れ込み、私も過去に二度、床上浸水を経験しました。

初めての水害時、たまたま両親は旅行中で、家には私一人でした。途方に暮れていたところ、近所の人が助けに来てくれました。「うちに泊まっていけよ」「いいから畳もってきなよ」「俺も掃除手伝ってやるよ」―― 皆温かい手を差し伸べてくれ、中には丸三日間、家の片付けを手伝ってくれる人もいました。この時ほど、人の心の温かさを痛感したことはありません。

一方で、水害の恐ろしさは凄まじいものがありました。あれからしばらく、雨が降ると夜中でも目が覚めてしまうほど、恐怖心を抱いたことを覚えています。

実は文京区も、長年水害に悩まされてきた地域でした。水害の恐ろしさを我が身で知っているからこそ、災害対策には力を入れてきました。例えば、住宅地に降った雨水を、地面へと浸透させる装置「雨水浸透ます」の設置拡大には全力をあげました。文京区長からも、雨水浸透ますについては「検証を行ったところ、目標を上回る浸透効果があった」と高い評価をいただきました。より一層災害に強い文京区にするため、これからも対策を進めてまいります。

高齢者にやさしい街へ
議員になりたてのころ、元気だった母親が心臓の病で倒れました。私のことを誰よりも応援し、私が人のために働くのを喜んでくれた母。私もなんとか時間を見つけては、千葉県で一人暮らしをする母のもとへ通い面倒を見ました。しかし多忙な日々で通いきれないときもあり、思うように介護ができず、さみしい思いをさせてしまったとの悔いもあります。母は2008年に逝去しました。
高齢者にとっても、介護をする人にも、より優しい街づくりを進めて、同じような状況の方々の負担を少しでも軽くしてあげたい――自身の経験からそのように決意し、健康寿命を伸ばすための介護予防の充実や、特別養護老人ホームの拡充、そして高齢者の生きがい就労事業を推進してまいりました。高齢者・障がい者など、社会的に弱い立場にいる方に、光をあてた社会を作りたいと思っています。

“現場第一主義”をモットーに
自身の社会人経験を活かし、環境政策にも取り組んでまいりました。マイバックの普及や校庭の芝生化、小学校への太陽光発電の導入などを実現させました。その他、長年の営業経験で培ったノウハウを活用し、区内企業の販路拡大を目的とした異業種交流会も実施しました。自身の経験とスキルを総動員して、より一層環境に優しい街・経済に活気ある街を実現してまいります。

4期16年間、多様な課題に取り組みましたが、これからが勝負どころです。現場第一主義をモットーに、これからも区民の皆さまのため、働いてまいります。

プライベート

  1. 妻・2男・1女・義母の6人家族です。
  2. 趣味は、読書とスポーツ観戦、そして毎日、新聞を全紙読むことです。
  3. 好きな作家は司馬遼太郎で、「竜馬がゆく」「世に棲む日々」などが愛読書です。
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